新刊「ギリギリ公務員 福間敏」に、関満博先生(一橋大学名誉教授)から寄稿いただきました。

島根県の新産業創造ブレインを務めておられる関満博先生から、新刊「ギリギリ公務員 福間敏」にご寄稿をいただきました。本書の主人公、福間敏さんの人柄、仕事ぶり、県や関先生とのいきさつなどがよくわかる内容となっています。

本書は、ハーベスト出版オンラインショップで購入できます。

故郷のために命懸けに生きるほど素敵な人生はない

─斐川の巨人・福間敏氏

一橋大学名誉教授

島根県新産業創造ブレイン 関 満博

20 年ほど前の2001 年の夏。島根県の産業担当スタッフ(商工労働部商工政策課課長補佐長岡明生氏、同産業振興課主幹松本新吾氏)が、一橋大学の私の研究室を訪ねてきた。当時50 歳を過ぎたばかりの多忙を極めていた私は、通常、そのような訪問は受け入れていなかったのだが、「島根」に気持が惹かれた。私はそれまでの25 年間ほど地域産業問題の中でも「モノづくり産業」に関心があり、そのような分野の仕事しかしていなかった。だが、研究者として終盤を迎えた2000 年の頃に中山間地域問題というものを知り、この先の自分の取り組むべきテーマと考えていった。その場合、中山間地域問題の象徴的な地域は島根県、高知県であることを知る。このどちらかと残された研究者人生を送りたいと考え始めていた。

そんな折りの島根県庁の訪問であった。長岡氏と松本氏は「島根県は公共投資依存型経済であるが、この先、そうしたことは期待できない。自力で産業政策を推進していかないと、県が潰れる。だが、これまで産業政策の経験もない」と語り、私に「指導して欲しい」というのであった。これは渡りに舟と受け止め、その場で了解、私は島根県の「新産業創造ブレイン」ということになった。「わかった。毎月、島根に行く。県庁職員の指導と、島根県内の産業、企業の現場訪問。若手県庁職員数人の私との現場同行」を条件とした。それから、10 年ほどはほぼ毎月3日程度の島根訪問になっていった。島根訪問は、もう、100 回前後になるのではないかと思う。

私が島根県のブレインに就任するにあたり、担当の松本新吾氏が起案文書を作成していた。以前から、その執務室に県内斐川町の職員がよく遊びに来ていた。商工関係の執務室をウロウロし、情報を収集していたのであろう。松本氏の横に置いてあった丸椅子にすわり、覗き込んだ彼は、「ほぉー、県は関さんを呼ぶんかや。だも、県では関さんを使いこなせんわな。まーあ、島根で使いこなせーのはオラだけだわ」と言うのであった。そうしたことが、私にも伝わってきた。その人物が斐川町企業振興室長(当時)の福間敏氏であった。

まさに、己の不明を恥ずべきだが、その当時まで、私は斐川町のことも福間氏のことも存じあげていなかった。2001 年秋口から私の島根通いが始まる。妙なことを言っている福間氏に会いたいとの私のリクエストに応えてくれた県庁の手配により、忘れもしない2001 年12 月16 日(日)の昼下がり、斐川町役場で会うことになった。

静まりかえった休日の役場の2階の応接室に通されると、ソファーには10 人ほどの年配の方が座っていた。後でわかったのだが、彼らは福間氏に全幅の信頼を寄せている斐川町の中小企業経営者の方々であった。福間氏は壁にかけられた地図の前に立ち、真冬なのに汗だくになりながら説明する。ネクタイはよじれ、まるで刑事コロンボを彷彿とさせた。

2時間ほどの説明の最後に、福間氏は「オラは、岩手県花巻の起業化支援センターの佐藤利雄さんの弟子ですだ。斐川に花巻の分室を作りました。見て、指導してごしない」と叫んだ。軽トラで連れて行かれた郊外の工業団地の一角には、花巻の起業化支援センターとよく似た「斐川町企業化支援センター」が拡がっていた。ここが福間氏との出会いとなった。

その後、幾つかの統計を眺めると、斐川町は際立った町であることに驚かされた。1970年の人口は2万2384 人。辺境の島根の町村とくれば、常識的には30 年後の人口は1万人から、多くて1万5000 人であろう。だが、2000 年には2万6816 人と4432 人も増加していたのであった。県庁所在地に隣接する町村の場合、スプロール現象の受け皿として、そうしたケースはみられるが、当時は斐川町と松江市との間には、宍道町、玉湯町、平田市が横たわっていた。この人口増加は、明らかにこの30 年ほどの企業誘致によるものであった。

斐川町の企業誘致が本格化するのは1980 年代に入ってから。出雲村田製作所(1984 年)、島根富士通(1991 年)、スター精機(1993 年)と有力企業の誘致が続き、島根島津は1997年に進出してきた。2005 年当時、誘致企業は28 社、雇用されている従業員は約5000 人を数えていた。村田、富士通、島津といった東証1部上場企業を3社も自力で誘致できている町村は全国では他にない。その結果、斐川町は当時の島根県59 市町村の中で、製造品出荷等は第1位の約3700 億円、第2位の安来市(日立金属の企業城下町)の約1500 億円を大きく上回っていたのであった。日本の地方圏の町村で、これだけの成功を収めたところはない。

そして、20 年にわたり企業誘致の前線に立ち、誘致企業との間に深い信頼関係を形成してきたのが福間氏であった。企業誘致や産業振興の仕事は、3~5年の人事ローテーションの枠の中では身に着かない。少なくとも10 年、できれば20~30 年重ねていくことが望ましい。福間氏はまさにそのようなキャリアを重ねてきた。関係者の間では、彼の才能と努力は驚嘆の念をもってみられている。実際、福間氏と交流を深めていくほどに、氏の独特な人間的魅力に惹き込まれてしまう。企業誘致の最大のポイントは地元の熱意、担当者の人間的魅力とされているが、福間氏こそ、それを体現している希有な存在であった。

その結果、町の財政基盤は強まり、広大な田園地帯の整備も進み、農道の舗装、農業用水の水道化も実現されているのであった。

このように、斐川町は企業誘致により際立った成果を収めたが、福間氏は1990 年代末頃には大きな不安を感じ始める。日本の有力な電気・電子メーカーがいっせいにアジア、中国進出に踏み込んでいった。斐川の誘致企業は大丈夫なのか。その頃、私の何かの雑文を目にした福間氏は、内発的産業振興に踏み出していた岩手県花巻市と佐藤利雄氏のことを知る。そして、有給休暇を取り、佐藤氏に弟子入りしていったのであった。

後に、佐藤氏に確認したところ、「彼は凄いよ。まる1週間、朝から晩まで僕のそばを離れないんだよね。2回来たよ」と語っていた。福間氏は早朝から佐藤氏の横に立ち、終日彼の行動を観察、企業インキュベーションのノウハウを読み取っていったのであろう。まるで、木下藤吉郎を彷彿とさせる。愛する故郷のために、夜討ち朝駆けの人生を送っておられることに感嘆せざるをえない。

地域産業政策の世界には、企業誘致を軸にする「誘致型」と、内発的に企業を育成していく「内発型」とがある。小さな自治体で、「誘致型」で最も成功したのが斐川町であり、インキュベーションを意識した「内発型」展開で最も成功したのが佐藤利雄氏がリードする花巻市といわれていた。

福間氏は、2001 年4月には花巻型のインキュベーション施設「斐川町企業化支援貸工場」の整備、2002 年4月には「斐川町企業化支援センター」の設立へと進めていった。ここから、斐川町は従来の企業誘致に加え、産業基盤を充実させる内発型振興を組み合わせ、独特の路線を歩んでいくことになる。そして、この二つの施設を運営するものとして、2002 年7月には「NPO法人ビジネスサポートひかわ」を設立している。設立趣意書には「当団体は、地域経済の行く末に危惧を抱く民間有志により組織され、地域産業振興のための民間支援団体として活動を行なう」とし、「目標は、この地域が今後とも経済的に繁栄していくことであり、孫子の代まで、生活が保障される地域として存続していくことであります」とうたっていた。

2003 年9月17 日、当時の小泉純一郎首相の下、首相官邸において「地域産業おこしに燃える人」の伝達式が開催された。第1回となる伝達式では、全国の33 人の「燃える人」が紹介された。うち、3人の方が代表して5分ずつ小泉首相、福田康夫官房長官(後の首相)、安部晋三副官房長官(前首相)の前でプレゼンを行なったが、花巻市起業化支援センターの佐藤利雄氏、三鷹市役所の関幸子氏と共に、福間氏は、出雲弁で訥々と語るのであった。

この「地域産業おこしに燃える人」、2003 年の春先に私が首相官邸に呼ばれたところから始まった。小泉首相は私と2人だけの首相執務室の応接で、「私は裸の王様だ。通常、王様には良い話しか来ない。だが、私の場合は逆だ。悪い話しか来ない。たいへんだ、たいへんだばかりだ。だが、きっと世の中には希望のある良い話もあるはずだ。貴方がそれを一番知っているようだ。地域で頑張っている人の話を個人名で聞きたい」というのであった。

30 分の予定が1時間に伸び、私は、代表的な先の3人の方の話を重ねた。小泉首相は何度も膝を叩いて「そうか、そうか」と高揚され、「素晴らしい、そういう人は全国に何人ぐらいいるのか。300 人いたら日本も変わる」と言われるのであった。私が「30 人はいる」と応えると、首相は「是非、応援したいが、どうすればいいか」と言い出した。私は「30 人の方の現場を首相自ら訪問し、激励して欲しい」と応えると、「30 カ所は難しい」となり、それでは「官邸に30 人を呼んで激励して欲しい」と要望すると、即断され、9月17 日を迎えることになった。また、「そうした人たちの名前を考えて欲しい」とお願いし、「地域産業おこしに燃える人」の名称をいただくことになった。

当日、会場でのやり取りが終わり、用意されている記念撮影の雛壇に向かいながら、首相は真っ先に「貴方が福間さんですか」と抱き抱えるかのように握手してきたのであった。

その後、福間氏は斐川町から島根県庁の商工労働部の参与として招かれ、斐川町ばかりでなく、島根県全体の産業振興を推進していく担い手となっていくのであった。人を惹きつける独特の行動と語り口、そして、際立った情報収集力、新規産業の育成、全国の有力企業と県内企業とのリンケージ、県庁市町村の若手職員の育成、若手経営者の育成等、その活動の幅は広く、多くの人びとに勇気を与えてきたのであった。

人口減少、高齢化の進む地方圏において、十数年前までは島根県は高齢化率が全国最大、経済は最下位組とされていたのだが、近年、根本的に様子が変わってきた。現在では、産業活性化の意欲が全県に拡がり、また、定住も進んでいるとして注目されている。そのような変化を促したものとして産業振興の前線に立ち、心を込めて人びとを鼓舞し続けてきた福間氏が担ってきた役割は大きい。個人は有限だが、地域は永遠なのである。後に続く私たちは、福間氏の精神を受け継ぎ、地域を豊かにしていく者として、次に向かっていかなくてはならないのである。